■義人/ルカ18:9~14
「義人」読んで字の如し、正しい人という意味。
日本語辞典は「堅く正義を守る人。我が身の利害を顧みずに他人の為に尽くす人。」とある。
まあ、これだけでも殆どの人は落第であろう。
しかし、これはあくまで人間が考えた基準である。
人間が考え出した規範であるなら、水が漏れ出る様に、どこかに隙もあると思う。
だが、聖書の神は別な視線と基準を持っているので、結果はこうである。
「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は罪を犯した。」(ローマ3章)
つまり、「すべての人は神から離れた」のである。
確かに生まれたとき既に離れていた。
クリスチャンになった今でも・・・。
イエスはこのようなたとえ話を話された。
二人の人が祈るために宮に上った。
一人はパリサイびと、一人は取税人であった。
二人は離れて立っていた。
パリサイびとは顔を上げ、取税人はうなだれ、ずっと後ろに立っていた。
パリサイびとは心の中でこう祈った。
(神よ、私は週に二度断食をし、姦淫する者、不正な者でなく、十分の一を捧げております。特に、この取税人の様でないことを感謝します。)
一方の取税人は目を上げようともせず、頭を下げ、
胸を叩き、心の中でこう言った。
(神さま、こんな罪びとを憐れんでください。)
イエスはいわれた。
「あなた方に言うが、義と認められたのは、この取税人です。パリサイびとではありません。」
人間は自ら自分を義人とすることは出来ない。
しかし、実際はしているのだ。
又、誰か正しい人を見たとて、その人を義人とすべきではない。
また安易に他者を罪びとと決めつけるべきでもない。
自分も同様の罪びとなのだから。
ひとを義人とするは「神」だけである。
「イエスを救い主と信じ受け入れて、己が罪を洗われること。」それ以外に救われる道は無い。
人はここに於いてのみ、神によって義とされる。
新約聖書の約束である。
マルチン・ルターが命を賭けて勝ち取った聖書の約束は「ひたすら信仰による義」あるのみだ。
旧約聖書、アブラハムの人生。
彼にはずっと跡取りがなかった。
妻のサラにせよ、既に子を孕める体ではなかった。
彼は悩み焦っていた。
(自分の跡取りは、自分の奴隷の息子、ダマスコのエリエゼルなのだろうか?
主は私との約束をお忘れになったのだろうか。)
神の祝福は豊かにアブラハムを包み、僕の家族も増え、家畜も増え、財産は溢れていた。
だが、一番肝心な彼の跡取りがいなかった。
ある晩、主はアブラハムを外に連れ出された。
真っ暗ではあったが、それ故に満天の空は大小さまざまな星たちが、まるで敷き詰められたかのように散りばめられ、互いは競うかの如く輝き、きらめいていた。
主はいわれた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることが出来るなら、それを数えなさい。」
さらに仰せられた。
「あなたの子孫はこのようになる。」
聖書は言う。
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義とされた。」
アブラハムが何をどこまで、どの様に信じていたかは書いてない。
だが、信じるとはそういう事なのである。
あとさき考える必要も、今の自分の頭の中を整理する必要もない。
第一、 信じる対象はどこかの誰かさんではない。
天と地を創られた神である。
創造主の前に置かれたということは、自分は主の被造物の一片であり、ましてや罪びとの私如きが、いかなる条件や理由を持ち込むことさえ、全くナンセンスなのである。
私が神を神とせずとも、神は既に神である。
だから全能の神なのだ。
「人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:4)
グウの音も出ない。
ギャフンである。
人は何者でもない。
ただ、神の豊かな憐れみと慈しみによって、今がある、それだけだ。
「彼は神を信じた。神はそれを彼の義とされた。」
アブラハムは私達の祝福の基いであり、信仰の父である。
信仰とは「こうあるべき」を彼は自らの生きざまで証しした。
神が彼を義とされ、そして人はキリストという神によって義とされた。