■人生で一番大事なもの / マタイ9:1~8
脳卒中で身動き出来ない男性がいた。 ある日、ナザレのイエスが近所の家に来られたらしい、という情報が飛び込んだ。 そこで男達は病人を戸板に寝かせたまま、その家に運んだ。 ところが家の中は大勢の人で立錐の余地もない。 ましてや寝かせたまま、運びきれない。 そこで男たちは病人を屋根に運び上げると、屋根を剥がし、イエスがおられるあたりへ検討をつけ、病人を吊下ろした。 日本の家屋と異なり、中東の屋根はせいぜい露を凌ぐだけの簡素なものだった。 だが、幾ら何でも他人の家の屋根を剥ぐとは、かなり荒っぽいものだった。 つまり、それ程にこの病人を治してやりたいと思ったことと、イエスの所に連れて行けば何とかして下さると信じ込んだからだった。 目の前に下ろされた病人と、彼を吊下ろした男たちの信仰を見てイエスは言われた。 「子よ、あなたの罪は赦された!」 信仰とは、必ず見えるべきものとなる、という観点を忘れていまいか。 確かに信仰は心、腹、そして胸、頭、すべて内在した場所で息づいているのかも知れない。 しかし、信仰は黙っていない。 内に貯めているだけで信仰は育たない。 外へ向かって出たい!これがキリスト信仰だ。 イエスはそれを見られた。 この場面、イエスの言葉を人々はどう聞いたかだ。 反応は様々だった。 予想外のイエスの言葉に思わず「えっ!」と思ったのは、吊下ろした男達であったかもしれない。 彼らは、そういう言葉を聞くために難儀をして、病人を降ろしたのではなかった。 イエスの「子よ、癒されよ!」という声を期待したのだ。 人間が求めるものと、神が求められるものは違う。 人は目の前の価値を求め、神は永遠の価値を求める。 人生は死んだら終わりではない。 ひとの死後は永遠のいのちか、または永遠の滅びである。 そこにパリサイびとがいた。 彼は心の中で呟いた。「この人は神を汚している。罪を赦せるのは神以外に無いのに。」 イエスはパリサイびと心を読んでいわれた。 「なぜ、こころの中で悪いことを考えているのか。 あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて歩きなさいと言うのと、どちらが容易い。 ひとの子が地上で罪を赦す権威を持っているのを、あなた方に知らせるために。」 「起きなさい、寝床をたたんで家に帰りなさい。」すると、男性は起きて家に帰った。 つまり、イエスは神だけが出来ること、罪の赦しを最優先されたのである。 人間世界で目に見えない要因が人間そのものを悩ましている。 それが罪(つまり、神から離れて生きていること)であると、90%以上の人が知らない。 そして、クリスチャンこそが忘れていることだ。 イエスを受け入れたから、もう罪は過去の事と考えるなら、もう一度バプテスマの冷たい水を頭から被って、目を覚ます必要がある。 昨年あたりFBで氷水をバケツで頭から被った動画が流行っていたが、別にあれは悔い改めではない。 人はイエスを心に受け入れたときから、真の悔い改めを知る。 それはキリストの御霊が導くわざによって、であるからだ。 我々クリスチャンこそ、己が罪、腹の底に沈んでいる自己虫という役にも立たない虫を腹から下すがよい。 イエスの癒しの場面をよく読むと、「汝の罪、赦されたり!」との一喝に感動した人が居なかったことは興味深い。 創造主が最も偉大なわざを行われたのに、誰一人として喜んだ形跡がない。 人は必ず死ぬ。 間違いなく死ぬ。 そして永遠の滅びへと落ちて行く。 創造主の御目から見るなら、人間のいのちは夏草に宿った露の玉程度なのである。 太陽が昇ると、瞬時に消えてしまう。 イエスを心にお迎えして、罪の存在と赦しを知り、人間性をリセットされるが良い。 人間性がリセット(つまり神の前に)されれば、人生が、家族関係が変わる。 神の視界はそこを見ておられる。 あの場面、宗教熱心だったユダヤ教徒は心中で呟いたものだ。 「こいつは神を冒涜している。」 キリスト教を宗教にしてはいけない。 人間が中心の宗教ではなく、生ける神、よみがえられたイエス・キリストを真ん中に生きる。 「草は枯れ、花はしぼむ。だが私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40章) 何故、聖書の神の言葉は永遠なのか? それは神ご自身が永遠だからである。