■ 100%の主導権 / マタイ1:16~25 (2013-12-15)
人間のいるところ絶えない、決して尽きないのは主導権争いである 特に政界などは、その代表的な場所でもある。 政党が合体したかと思うと、一年も経たずに離党したり、解党する。 そしてアメーバの様に、別な場所で他の政党と合体する。 元々は右と左であるのだから一緒になれるはずも無いのに。
家庭の主導権争いはどうだろう。 夫と妻のぶつかりの原因は様々あるだろうが、結局は主張の違いからだ。 主導権を握れなければ、主張などいつまで経っても通らない。 しかし、争っている間は案外、夫婦間が元気な証拠だと思う。 それが静まってしまったら、若しかして未来において心配された事が起きる前兆なのかも知れない。
キリスト教界の歴史でも結局は主導権争いだった。 僅かな解釈と主張が収まらず、いっそのこと別れましょうということで、将来が見えたりする。 パウロとバルナバだって結局は主張から主導権争いへと発展した。 しかし、さすがに信仰者の大人?である。 二人はさっさと別の道を選んで別れたが、やがては和解し、以前よりも良い実を結んだ。 いつまでも恨み言を言い合っているよりも、新しいスタートを切る方が良い時が多い。 クリスチャン達は、そうやって新しい道を求め、未来への基点とした。 そういうことで、教団、教派が沢山生まれたのである。 パウロの言葉を借りると、「本当の信者があきらかにされる為には分派が起きるのもやむを得ない。」とある。(第一コリント11:19)
クリスチャン生活の最終的なゴールはここにある。 つまり「人生の主導権をいかにして、神さまにお渡しできるだろうか。」という取り組みが私達の目指す高嶺だと思うからだ。 私の人生は私が主導権を持つ、と思って生きて来た。 しかし、唯一の神さまに出会ってしばらくしたら、それは間違いだと悟らされた。 つまり、それこそが、的外れ(原罪)だったのである。 そして、そこからが本当の求道者としての人生がスタートしたと言える。
若くて正直者のヨセフ、純粋な乙女マリヤ、実に似合いのカップルは許婚であった。 共通しているのは、二人とも主の前に敬虔で従順であった。 夫婦となる日を楽しみに待っていた二人。 しかし、とんでも無い事が二人の身の上に起こった。 主が二人の結婚に対して完全なる主導権を握られた。 ヨセフも勿論、マリヤは更に不安にかられ、恐れと迷いの程は想像することも出来ない。 マリヤは聖霊によって身籠り、彼女を離縁しようと考えていたヨセフにも「有無を言わさぬ」強引ともいえる神の介入であった。 その結婚こそ、神がずっと待っておられた計画の実行であり、瞬間だった。 人間の罪を贖うメシヤ(救い主)は今こそ、処女マリヤの体に命を受けたのである。
私達は自分の人生という場面と時間の中で、どれ程を主に主導権をお任せしているのだろう。 思えば献身とは実に過酷なことでもある。 自分の人生のハンドルを主に明け渡すのである。 だが神さまは、その人の献身を通して「神のご計画」を為されるのである。 献身とはこの世で最も難しく、そして尊いことである。 否、主が臨在されるのであるから、人が悩んだり、難しいと思う感覚も無いのであろう。 明け渡すことを決心したら、責任は神さまが負って下さるのだから。 果たして、私は私の人生で「どれ程の主導権」を主に捧げているのだろう。 正直、「これくらい」とさえ、思えない自分がいる。